あっという間の30年!!

今回倉庫のかたずけで遂に出てきました、あの有名なパンナムバッグ!ほぼ新品状態です。

ついでに当時の誰かさんの写真!!結構大根ですね、、(笑)。

昔はこうしてタタラップでした!やっぱりこれを降りてくると、飛行機に乗ったなあ、、って気分が湧いてきました!

1929年、クリッパーで初めてのエアメールを運んだパパンナム機!

4発クリッパー、1931年!

ニューヨークからカラカスのナショナル・イーグルスに到着したパンナム・クリッパー。

1976年、5478マイルをノンストップでLA から東京へ飛んだパンナム機!ちょっと変な富士山ですが、、、(笑)。

な、なんと健太のグリーンカードも出てきた!もっとも今は市民権があるのでこれはもういりません、、、。

ブルーコメッツの三原綱木さんとのプレー アット・カピオラニ・ムゲン。なんとこれも30年前です、、。

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いやー、今回の倉庫の改造に伴う大掃除で、

いろんな懐かしいものが出てきました。

上の写真の綱木さんとの演奏、何ともう30年前の話です。

この時健太は綱木さんの作曲した「雨の赤坂」を歌いました。

綱木さんも病気をしてこのところ一挙に老けて来ちゃったけど、

まだまだ元気にYoutubeをやっておられます。

健太のグリーンカードの写真も若い若い、、(笑)!

また一番最初の「パンナム・バッグ」、

当時は若者たちの間で大人気、

海外に行ったこともないのに、

このバッグを担いで街を歩いている人が結構いました、、(笑)。

現在の三原綱木さん

あっという間の30年!!” への7件のフィードバック

  1. 747-200 70年代から飛んでると思うのですが私の思い出はたしか1986年か7年に初めてラスベガスにANAの直行定期便747-200が飛んで来てコックピットの上の日の丸を見て涙が出そうになった記憶があります。
    当時日本はバブル期だったので世界で一番ジャンボ機を持ってたはずです。
    またブルコメの三原綱木はデビューしたての田代みどりをファンから略奪して結婚したんだと思います。
    PAN AMのオリジナルバック いま日本でメルカリ(日本のeBAYです)に出品すれば高値が付くでしょう。
    やはり年代が近いので思い出も似通ってきますね。

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  2. グリーンカード何と懐かしいですね。
    私は市民権を取得した時にグリーンカードは取り上げられたと思います。
    私がグリーンカードの取得(調理師で)、市民権の取得時全ての書類、経歴等は全てフェイクでした。当時のアメリカはなんといい加減な国だと思いました。
    市民権の宣誓式にジーパンとTシャツ、ビーチサンダルで出席しましたが中南米からの人達はネクタイにスーツ姿で呼ばれた後は涙を流していました。私は何と不心得の人間だったんだろう。
    以上は全て他言しないようにお願いします。

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  3. 地を這うゴルフさん

    747は旅の概念を大幅に変えてくれましたね!
    席数が多いことから多くの観光客募集しなければならない航空会社も、
    日本の観光会社に破格のレートを出して集客をしました。
    お陰様で私も、ミュージシャンの仕事が「ディスコ」や「カラオケ」で奪われても、
    何とか観光業につくことで生き抜けました。

    パンナムのバッグはちょっとシミなどもありますが、
    ほぼ新品同様の形で出てきました!
    高く売れそうです、、(笑)。
    私もグリーンカードは返納したものとばかり思ってましたが、
    倉庫の書類の中から出てきて驚きました。
    私が取得した時も喜んで泣いている人もいましたが、
    私はふてくされた態度で大した感動もなく受け取ったその態度は、
    不良外人だったかもしれません、、(笑)
    地を這うゴルフさんは調理師で最初ハワイにいらっしゃったんですね!
    レストランはどちらでしたか、、、、
    もしかしたらお会いしているかも知れません、、。

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  4. 健太さん今日は。
    私が初めてハワイに行った1965年か66年目的は恥ずかしながらハワイ大学入学です。
    大学にも行かず1年少し滞在して帰国しました。
    日本での荒んだ生活も飽きてきて1975年10月に知り合いがいたのでLAに行きました。ご存じだと思いますが当時は不法滞在でもUS出入りはとがめられることがなく最初何年間は不法滞在。
    しかし友達がいずれダメになるから永住権を取っておいた方が良いと言われ友達のレストランに働いていたようにして80年前後に申請しました。
    当時は永住権申請中はUSの出入りが出来なく私は5年近くかかりました。
    それから5~6年して日本からの嫁をもらうため市民権の申請をしたのですが1回目の申請は却下され半年経って2回目の申請でアメリカ人になれたのです。
    前回書いたように調理師は1回も経験なく書類は全てフェイクでしたが市民権の申請時は小さな事業をして税金は胡麻化しながらきっちり払っていました。
    私の25~6年のUS生活は本でも出せるような紆余曲折の人生でした。

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  5. タロッペいたばしさん

    はい!
    遂に発見しました。
    実は倉庫には何回か泥棒に入られて、
    ギターのほか結構なものを取られました。
    その中にもっとたくさん、
    トンマの思い出のものがあったので、悔しくてなりません、、涙。

    地を這うゴルフさん

    あー、UHに行かれたんですね。
    健太やトンマの友達にも大勢UH に通った連中がいます。
    おそらく中には同級生もいるのではないでしょうか、、。
    それにしても今では考えられませんよね、、
    不法滞在はそれほどとがめられませんでした。
    私はミュージシャンの就労ビザで入国しましたが、
    長い滞在だったので途中で切れて暫くビザなしで仕事をしていました。
    それではまずいので出演していたクラブのオーナーの助けを得て、
    グリーンカードを取りました。
    それにしても調理師の経験が全くなくて、
    そ調理師としてグリーンカードを取ったとは凄い!
    地を這うゴルフさんのその「紆余曲折人生」、
    大いに興味があります。
    機会があったら聞かせてください。
    小説にしたいです、、(笑)。

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