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プリンセス・カイウラニは1875年10月16日生まれ。
叔母のルース(カメハメハ5世の異母姉)から、
誕生日プレゼントとしてワイキキの土地を譲り受けた。
一番上の写真には旧モアナホテル及びモアナ・サーフライダー、
ハイヤット、そしてプリンセス・カイウラニ・ホテルを映してみたが、
カイウラニが譲り受けたのは、
その全域 及びクヒオ道りからアラワイ運河辺りまでに亘る、
広大な土地だ。
カイウラニはその土地をアイナハウ(涼しい場所)と呼んだ。
当時はワイキキは田舎と思われていて、
白人たちにはまるで人気なかったと言う。
ハワイ7代王・カラカウアはカイウラニを養女にして、
王位継承者第一位としていた。
日に日に白人勢力が議会内で力を持ち始める事に危惧して、
なんとか彼らと袂を分かとうとしていたカラカウア。
そこで日ごろから日本に好意を持っていたカラカウアは、
日本の皇族山階王定麿とカイウラニの婚姻を画策する。
だが日本側が皇室に外国の血が流れるのを良しとせず、
丁寧に断られてしまう。
次いでサモアのマリエトワ王と、
同族の結束を呼びかけ政治同盟を締結したまでは良かったが
マリエトワ王はやがてドイツによって国外追放となり、
カラカウア王の夢は海の藻屑と化してしまった。
そんなカラカウアの弱味に付け込んだ白人グループは、
益々つけあがり銃でカラカウア王を脅し、
白人たちに有利な憲法にサインさせてしまった。
失意の中で酒におぼれたカラカウア王は健康を害し、
治療先のサンフランシスコで亡くなってしまう。
カイウラニはその時王族として立派な教育を受けるため、
イギリスに留学中だった。
よってカラカウア王の妹・リリオカラニが第8代王に即位したが、
それもつかの間、
白人たちによってリリオカラニは強引に退位させられてしまう。
イギリスに留学中のカイウラニは急遽ニューヨークへ飛んで、
アメリカ大統領のクリーブランドに直訴、
一瞬問題はクリーブランドによって良い方向に向かったが、
結局ハワイの白人たちの強硬姿勢により、
元の鞘には戻らなかった。
カイウラニはじっとしていられなかった。
8年ぶりにイギリスからハワイに帰ったカイウラニだったが、
時すでに遅し、
すべては白人たちの手に落ちていて手も足も出なかった。
帰国したカイウラニはハワイ島に旅行に出かけた。
しかし不運にも乗馬の出先で大雨に会って発熱、
アイナハウに戻ったカイウラニだが医師の努力も空しく、
帰らぬ人となってしまった。
1899年3月6日、プリンセス・カイウラニ23歳、永眠。
実は健太がこうしてハワイの歴史を調べて行くうちに、
大きな疑問符が浮かんで頭から離れない。
これをハワイ報知新聞の「ハワイ色の空の下」に、
いつしか載せたいと思っている。